
賃上げ政策:多様化する賃上げ手法と今後の展望
近年、日本経済における賃上げの重要性が高まっています。従来の定期昇給やベースアップに加え、企業の規模や業績、そして従業員の多様なニーズに応じた賃上げ手法が注目されています。株式報酬や手当の増額など、従来の枠にとらわれない柔軟なアプローチが広がりを見せる一方で、その効果や課題も浮き彫りになってきました。本記事では、多様化する賃上げの手法を詳しく解説するとともに、今後の賃上げが日本経済に与える影響について展望します。
賃上げとは:その定義と手法
賃上げとは、企業が従業員に支払う給与水準を引き上げることを指します。その手法としては、定期昇給とベースアップが主なものとして挙げられます。定期昇給、通称「定昇」は、企業の就業規則や賃金規定に定められた基準に則り、定期的に実施される昇給制度です。昇給額は、従業員の勤続年数、年齢、人事評価などが総合的に考慮され決定されます。一方、ベースアップ、通称「ベア」は、企業に所属する全従業員の基本給を一律で引き上げることを意味します。近年では、これらの伝統的な手法に加え、株式報酬制度の導入や各種手当の拡充など、賃上げの手法は多様化の一途を辿っています。
賃上げの背景と要因:人材獲得競争の激化と物価上昇
近年、多くの企業が賃上げに踏み切る背景には、優秀な人材を巡る獲得競争の激化と、物価上昇という二つの大きな要因が存在します。かつての日本企業は、基本給を一度引き上げると、その後減額することが困難であるという認識から、ベースアップに対しては慎重な姿勢を崩しませんでした。しかし、少子高齢化の進行に伴う労働力不足や、高度なスキルや専門知識を持つ人材の獲得競争が激化する中で、企業は賃上げを積極的にアピールすることで、企業の魅力を高め、優秀な人材や専門人材を惹きつけようとしています。加えて、2023年以降の急激な円安に起因する物価高も、賃上げを強く後押しする要因となっています。1980年代までは、物価上昇とバブル経済を背景とした人材獲得競争の激化により、企業は賃上げに積極的な姿勢を示していましたが、バブル経済の崩壊後、賃上げ率は減少傾向で推移してきました。
2023年の賃上げ動向:大企業を中心に活発化
2023年は、特に大企業を中心に賃上げの動きが顕著に見られました。この動きのきっかけとなったのは、2022年12月に「連合(日本労働組合総連合会)」が、春闘において5%程度の賃上げ要求を決定したことです。厚生労働省が発表した「令和5年 民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況」によると、2023年の妥結額における平均賃上げ率は3.6%に達し、これは2022年の2.2%を大幅に上回る結果となりました。
出典:厚生労働省ホームページ. 第1表 令和6年民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況.https://www.mhlw.go.jp/content/12604000/001131821.pdf
政府による賃上げ支援策:賃上げ促進税制
政府は、企業の賃上げを支援するための施策として「賃上げ促進税制」を導入しています。岸田前首相は、2024年1月30日に行われた所信表明演説において、「政労使の意見交換を通じて、昨年を上回る賃上げを強く呼びかけ、春季労使交渉では、その呼びかけに応じる動きが広がっています。政府としても、この勢いを維持するために全力を尽くします」と述べ、政府が賃上げを積極的に支援していく方針を改めて強調しました。その具体的な施策として、2023年12月に閣議決定された「令和6年度税制改正の大綱」において、「賃上げ促進税制」の改正が明記され、従来よりもさらにその内容が拡充・強化されています。大企業向けの改正内容としては、給与等支給額が前年と比較して5%、7%増加した場合に、それぞれ20%、25%の税額控除を受けられる制度が新たに設けられました。さらに、従業員の教育訓練費が前年と比較して10%増加しており、かつプラチナくるみんまたはプラチナえるぼしの認定を受けている企業については、それぞれ5%ずつ税額控除率が上乗せされる仕組みも導入されました。今回の改正により、企業は最大で35%の税額控除を受けられるようになりました。
出典:経済産業省HP.令和6年度税制改正「賃上げ促進税制」パンフレット(令和6年3月時点版) https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinzai/syotokukakudaisokushin/r6_chinagesokushinzeisei_pamphlet.pdf
構造的な賃上げに向けた労働市場改革
政府は、2023年以降の賃上げを持続的なものとするため、包括的な労働市場改革を通じて、構造的な賃上げを目指しています。この改革は、以下の3つの要素を軸としています。1. スキル習得支援(リスキリング)、2. 企業の実情に応じた職務給制度の導入、3. 成長分野への労働力移動の促進。リスキリングを通じて新しいスキルを獲得した労働者が、成長産業へスムーズに移行することで、日本全体の賃金水準の向上を図ります。また、企業に対しては、職務給の導入を推奨し、個々のスキルに見合った公正な報酬体系の構築を支援します。政府は、助成金や職業訓練給付の拡充、職務給導入事例の共有などを通じて、構造的な賃上げを積極的にサポートしています。
賃上げの多様なアプローチ:基本給、株式報酬、手当、成果報酬
賃上げというと、一般的には基本給のベースアップが連想されますが、全従業員の基本給を一律に引き上げる方法には、メリットとデメリットが存在します。また、継続的なベースアップには限界があるため、他の賃上げ方法を検討する企業も増えています。賃上げの方法としては、1. ベースアップ、2. 株式報酬の導入、3. 新しい手当の支給または既存手当の増額、4. 成果報酬の増額などが考えられます。
ベースアップのメリット・デメリット
ベースアップの最大のメリットは、従業員全体の基本給が上がることで、モチベーション向上に繋がりやすい点です。また、給与水準が一律に向上することは、求職者にとって分かりやすく、企業の魅力としてアピールすることができます。一方、デメリットとしては、人件費が増加するため、財源の確保が不可欠となります。売上増加や利益率改善が伴わない場合、人件費が利益を圧迫する可能性があります。さらに、基本給の引き下げは、労使交渉が必要となる場合があるため、経営状況が悪化したからといって容易に行うことはできません。ベースアップを実施する際には、財務状況への影響を十分にシミュレーションし、売上向上や生産性向上策と並行して検討することが重要です。
株式報酬導入による利点と注意点
新たに株式報酬制度を導入することも、給与水準を向上させる有効な手段となります。株式報酬の魅力は、企業業績と連動した報酬体系を構築できる点です。株価が好調な時期には報酬額も増加しますが、業績不振などで株価が低迷した際には、企業の負担を軽減できます。また、従業員は株価上昇を通じて資産形成を図るため、長期的な視点で企業価値向上に貢献しようとする意識が高まります。さらに、一定期間の勤務を条件とした譲渡制限付き株式などは、従業員の定着率向上にも寄与します。一方で、税制が複雑であり、株価下落時にはインセンティブ効果が薄れるだけでなく、従業員の資産価値も減少するというデメリットも考慮する必要があります。
各種手当支給・増額の利点と注意点
基本給を直接引き上げるのではなく、各種手当の新設や増額によって給与を改善する方法もあります。手当の種類は多岐にわたるため、企業の状況に応じて最適なものを選択できます。例えば、全国転勤のある金融機関では、転勤手当を増額する動きが見られます。これは、テレワークの普及により転勤に対する抵抗感を持つ従業員が増加している背景があると考えられます。業務上の負担や特殊性に応じた手当は、従業員の納得感を得やすいという利点があります。また、転勤手当のように、支給対象者が限定される手当の場合、一律のベースアップに比べて費用を抑えることが可能です。物価上昇手当のように全従業員に支給する場合でも、一時的な措置とすることで、将来的な人件費負担を抑制できます。
成果報酬増額の利点と注意点
賞与や営業成績に応じたインセンティブなど、成果報酬の割合を増やすことも賃上げの一つの方法です。特に、顕著な業績を上げた従業員に対して集中的に報酬を増やすことで、優秀な人材の定着を促進できます。営業部門など、成果が明確に評価できる職種においては特に有効な手段と言えるでしょう。全従業員一律のベースアップに抵抗がある場合でも、成果に応じた報酬体系であれば導入しやすいというメリットがあります。
賃上げを検討する上で重要な3つのポイント
賃上げは企業にとって重要な経営判断であり、必ずしも実施しなければならないものではありません。2025年に向け、賃上げの実施の有無、実施する場合の具体的な水準などを検討する際には、以下の3つのポイントを考慮することが重要です。1.過去の賃上げによる効果を検証する、2. 賃上げの原資を確保できる見込みがあるか確認する、3.自社の労働分配率を継続的にモニタリングする。
これまでの賃上げ効果を検証する
過去に賃上げを実施した経験がある場合、その成果を詳細に分析することが重要です。賃上げによって、企業の採用競争力は向上したか、従業員の離職率は低下したか、そして従業員のエンゲージメントは高まったかなど、当初期待した効果が実際に得られたのかを検証しましょう。もし期待通りの効果が得られていたのであれば、さらなる賃上げを検討する余地があるかもしれません。しかし、効果が不明確だった場合は、安易な賃上げを避けるべきでしょう。採用競争力、離職率、エンゲージメントといった要素に影響を与えるのは、賃金だけではありません。賃金以外の要因で改善できる点があれば、そちらに資源を投入することも有効です。賃金以外の改善策も検討した上で、改めて賃上げの必要性や、どのような方法で賃上げを実施するかを慎重に検討しましょう。
賃上げの原資を確保できるか確認する
賃上げを実行すると、通常、企業の人件費総額は増加します。特に、基本給のベースアップは、一時的なコスト増ではなく、将来にわたって人件費を押し上げる要因となるため、十分な原資を確保できるか慎重に見積もることが不可欠です。原資を確保する方法としては、主に売上増加、生産性向上(コスト削減)、そして賃金カーブの見直しという3つのアプローチが考えられます。自社の売上予測や費用構造を詳細に分析し、将来的に人件費の増加が利益を圧迫しないかを確認しましょう。また、賃金カーブの見直しとは、例えば若手社員の給与を引き上げる代わりに、ベテラン社員の給与上昇幅を抑えるといった調整を行うことを指します。逆のパターンも考えられます。2023年、2024年と賃上げを実施してきた企業では、すでに人件費総額が大幅に増加している可能性があります。2025年以降、賃上げによる人件費負担をどのように吸収していくか、より慎重な議論が求められるでしょう。
自社の労働分配率を継続的にモニタリングする
賃上げを検討する上で、常に注視しておくべき重要な指標が労働分配率です。労働分配率とは、企業が生み出した付加価値のうち、どれだけを従業員の人件費として分配しているかを示すもので、以下の計算式で算出されます。労働分配率 = 人件費 ÷ 付加価値 × 100。労働分配率には明確な正解というものは存在しませんが、賃上げを検討する際には、人件費の上昇をどこまで許容できるかの判断基準となります。労働分配率を参考に、自社が目指すべき適切な水準を設定しましょう。。労働分配率の適切な水準は、企業規模によって大きく異なります。一般的に、資本⾦1千万円以上1億円未満の中小企業では、生み出した付加価値の70〜80%を人件費に充てるケースが多く、従業員への還元を重視する傾向にあります。一方、資本⾦10億円以上の大企業では、設備投資や研究開発費も多いため、労働分配率は50〜60%程度に落ち着くのが一般的です。
自社が目指すべき水準を考える際には、単に平均値と比較するだけでなく、事業戦略との整合性を考慮することが重要です。例えば、積極的に事業拡大を目指すなら一時的に労働分配率を抑える、従業員の待遇改善を優先するなら水準を高めに設定するなど、企業の目標に合わせて柔軟に考えるべきでしょう。
出典:中小企業.庁中小企業白書2023(中小企業の実態に関する構造分析)https://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/hakusyo/2023/PDF/chusho/03Hakusyo_part1_chap3_web.pdf
2025年の賃上げ予測:落ち着きを取り戻し、戦略的な賃上げへ
公益社団法人日本経済研究センターの調査によると、消費者物価上昇率は2024年度に2.69%、2025年度には1.75%まで鈍化すると予測されています*。2025年も引き続き物価上昇が見込まれることや、少子高齢化による労働力不足が解消されないことから、賃上げの傾向は継続すると考えられます。しかし、2025年度は物価上昇のペースが緩やかになり、2023年、2024年と相次いでベースアップを実施した企業も多いため、2025年の賃上げの動きはやや落ち着きを取り戻す可能性があります。また、一律でのベースアップではなく、諸手当や成果給といった形で賃上げを行う企業が増加すると予想されます。物価高への対応という側面が薄れるにつれて、企業はそれぞれの目的を明確にした上で賃上げを実施する傾向が強まるでしょう。優秀な人材の流出を防ぎたいのか、若手社員のモチベーションを高めたいのかなど、具体的な目標を設定し、それを達成するための最適な賃上げ方法を選択することが重要になります。
出典:2025.4.9.公益社団法人日本経済研究センター.ESPフォーキャスト調査.https://www.jcer.or.jp/jcer_download_log.php?f=eyJwb3N0X2lkIjoxMjU1MzQsImZpbGVfcG9zdF9pZCI6MTI1NTE5fQ==&post_id=125534&file_post_id=125519
賃上げの波に乗り遅れず、自社に最適な戦略を
この記事では、賃上げを検討する上で考慮すべき様々な手法と、それぞれの利点・注意点をご紹介しました。2024年に続き、2025年も賃上げの動きはさらに加速すると予想されます。人材獲得競争が激化する中、賃上げは企業にとって重要な戦略の一つとなっています。政府による支援策も充実してきており、2025年の賃上げを検討する上で、この記事が少しでもお役に立てれば幸いです。
まとめ
賃上げは、企業の発展と従業員の満足度を高める上で欠かせない要素です。この記事では、賃上げが注目される背景、政府によるサポート、そして多様な賃上げのアプローチについて詳しく解説しました。2025年に向けて、企業はそれぞれの状況を詳細に分析し、最も適した賃上げプランを策定することが不可欠です。賃上げの動きにただ追随するのではなく、自社に合った方法で従業員の意欲を引き出し、企業の継続的な成長につなげましょう。
よくある質問
Q1:賃上げを見送るとどうなるのでしょうか?
賃上げを実施しない場合、従業員の働く意欲が低下したり、離職者が増えたり、企業としての魅力が低下したりする可能性があります。特に優秀な人材は、より良い条件を求めて他社へ転職してしまうことも考えられます。
Q2:賃上げの資金はどのように調達すれば良いですか?
賃上げのための資金を確保する方法としては、売上を伸ばす、業務効率を改善してコストを削減する、年功序列型の賃金体系を見直すなどが考えられます。これらの対策を総合的に検討し、無理のない範囲で賃上げを行うことが大切です。
Q3:賃上げ促進税制の概要
賃上げ促進税制は、企業による従業員の給与引き上げを後押しする目的で国が導入した税制上の優遇制度です。所定の条件を満たすことで、企業は給与増加額に応じて法人税の控除を受けられます。制度の詳しい内容は、経済産業省のホームページ等で確認できます。





